甘い香りなのに、切ると鶏肉が出てくる
焼き上がった丸いパイに粉砂糖をふると、台所の空気が急に菓子屋のようになります。ところが包丁を入れると、出てくるのは生クリームではなく、しょうが、シナモン、香草で煮た鶏肉と、卵でまとめた濃い玉ねぎの具。最後にアーモンドの甘さが追いかけてきて、頭の中の「甘い」と「しょっぱい」の境目が少しずれます。

パスティラ(Pastilla / Bastilla / بسطيلة)は、モロッコで知られる薄い生地の包み焼きです。伝統的には鳩や若鶏、ワルカと呼ばれる薄い生地、卵、アーモンド、シナモン、粉砂糖を重ねます。現地の台所では大皿で焼き、祝いの席や来客の食卓に出されることが多い料理です。
日本で作るときの壁は、鳩肉とワルカです。どちらも家庭の買い出しでは現実的ではありません。この記事では、鶏もも肉、春巻きの皮またはフィロ生地、浅い丸型で作れる形に寄せます。ただし、守るべきところはあります。具の水分を飛ばすこと、アーモンドを細かくしすぎないこと、焼く前に生地へ油脂を均一に入れること。この3つを外さなければ、日本のオーブンでも「甘いのに食事になる」パスティラに近づきます。
モロッコ料理入門では、タジン、クスクス、ハリラのような定番をまとめています。パスティラはその中でも少しハレの日寄りです。普段の煮込みならタジンの作り方、豆と香草のスープから入るならハリラの作り方が作りやすく、週末に少し時間を取れるならパスティラが一気に食卓の主役になります。
鳩肉は鶏もも肉で代替できます。ワルカはフィロ生地、入手しにくければ大判の春巻きの皮で代替します。代替しても、具の水分をしっかり飛ばし、卵の層とアーモンドの層を分けると、パスティラらしい軽さと甘じょっぱさが残ります。
パスティラの背景 — フェズの祝い料理と海辺の変化

モロッコ観光局は、フェズの食文化を紹介する文脈で、パスティラを鳩肉とアーモンドを詰めた料理として挙げています。WIPOのモロッコ料理に関する資料でも、ワルカ生地に鳩または鶏、アーモンド、卵、シナモンを合わせる料理として説明されています。つまり、パスティラの中心は「肉を甘くする」ことではなく、香りの強い肉、卵でまとめた旨味、ナッツの甘さ、薄い生地の香ばしさを一つに重ねることです。
名前はパスティラ、バスティラ、ベスティラなど表記が揺れます。日本語では「モロッコ風ミートパイ」と説明されることがありますが、一般的なパイよりも層が薄く、焼き上がりは軽いです。フィリングは家庭や店で変わり、内陸では鶏や鳩の甘じょっぱい版、カサブランカなど海辺では魚介を使ったシーフード・バスティラも見られます。魚介版は春雨や白身魚、エビ、イカを使うことが多く、粉砂糖を強く出さないものもあります。
日本で初めて作るなら、鶏肉版がいちばん筋が通ります。鳩肉の野性味は出ませんが、鶏もも肉なら脂とゼラチンがあり、玉ねぎと卵の層に負けません。むね肉だけで作ると、切った断面がぱさつきやすいので、使う場合はもも肉と半量ずつにしてください。
パスティラが面白いのは、「食事の甘さ」を教えてくれることです。日本の家庭では、砂糖と肉を合わせるとすき焼きや照り焼きの方向に行きがちですが、パスティラはもっと乾いた甘さです。粉砂糖とシナモンはソースではなく、香りの幕のように表面にのります。中の具を甘くしすぎない方が、最後まで食べやすくなります。
失敗原因と戻し方

| 症状 | 原因 | 戻し方 |
|---|---|---|
| 底が湿る | 卵の層や鶏肉に煮汁が残った | 切る前なら190度の下段で8〜10分追加。次回は卵の層を弱火で2分長く飛ばす |
| 表面だけ焦げる | 砂糖を多くふりすぎた、上火が強い | 焼成中ならアルミホイルを軽くかける。仕上げの粉砂糖は焼いた後にふる |
| 生地が割れる | フィロや春巻きの皮が乾いた | 作業中は濡らして固く絞った布をかける。割れた部分は追加の生地で覆う |
| 中身がぼそぼそ | 鶏肉を煮すぎた、むね肉だけで作った | 卵の層を少し多めにし、鶏もも肉を使う。煮る時間は25分以内に収める |
| 甘さが重い | アーモンドに砂糖を入れすぎた | レモンを効かせたサラダを添える。次回はアーモンド用の粉砂糖を25gまでにする |
| 香りがカレー寄り | クミンやターメリックが多い | シナモン、しょうが、香草を軸に戻す。ラスエルハヌートは小さじ1を上限にする |
一番多い失敗は、底が湿ることです。原因は生地ではなく、中身の水分です。鶏肉を取り出したあと、鍋に残った煮汁を「おいしそうだから」と多めに残すと、焼いている間に底へ落ちます。卵でまとめる前に必ず煮詰め、卵を入れた後も汁が見えないところまで火を入れてください。
もう一つの落とし穴は、生地を怖がって油脂を塗らないことです。バターを塗らないと軽くなるように見えますが、実際には乾いて割れやすく、層も剥がれません。刷毛で薄く塗る程度で十分なので、1枚ごとに少しずつ油脂を入れます。
焼き上がり直後に切るのも失敗の原因です。中の卵とアーモンドが落ち着く前に包丁を入れると、断面が崩れます。8分休ませると余熱で層がまとまり、切ったときに鶏肉、卵、アーモンドの境目が見えやすくなります。
食べ方、献立、保存とFAQ

パスティラは、現地では大皿で出し、前菜と主菜の間のように切り分けることがあります。粉砂糖がのっているのでデザートに見えますが、食べる位置としては食事の流れの中にあります。日本の夕飯なら、最初に小さく切って出し、あとにクスクスや野菜のタジンを少量置くと、重くなりすぎません。
付け合わせは、酸味と水分のあるものが合います。きゅうりとトマトの角切りサラダ、にんじんのクミン風味サラダ、レモンを効かせた葉物があると、甘さと油脂が切れます。ハリラを合わせる場合は、パスティラを小さめに切り、スープは軽めにしてください。甘い香りの食卓をもう少し広げるなら、中東菓子のクナーファと比べると、同じ「甘さと香ばしさ」でも食事寄りと菓子寄りの違いがよく分かります。
保存は冷蔵で2日が目安です。粗熱が取れたら切り分け、1切れずつラップで包んで保存容器に入れます。温め直しは、180度のオーブンまたはトースターで8〜12分。電子レンジだけだと生地が湿るため、使う場合は600Wで30秒温めたあと、トースターで3〜4分焼いてください。
冷凍するなら、焼いた後の切り分け冷凍が扱いやすいです。1切れずつ包み、2〜3週間を目安に使い切ります。未焼成のまま冷凍すると、生地が割れたり具の水分が出たりしやすいので、家庭では焼いてから冷凍する方が安定します。
よくある質問
| 質問 | 答え |
|---|---|
| 鶏むね肉でも作れますか | 作れますが、むね肉だけだと断面がぱさつきやすいです。初回は鶏もも肉700g、またはもも肉400gとむね肉300gの組み合わせがおすすめです。 |
| 春巻きの皮で本当に大丈夫ですか | 大判を使い、1枚ごとに薄くバターを塗れば作れます。フィロ生地より厚くなるため、重ねすぎず、焼き色をしっかり付けてください。 |
| 粉砂糖は省けますか | 技術的には省けますが、パスティラらしさは弱くなります。甘さが苦手なら、粉砂糖を半量にしてシナモンだけを少し多めにします。 |
| 前日に準備できますか | 鶏肉、卵の層、アーモンドの層は前日に作れます。包むのは当日がきれいです。包んで長く置くと底が湿りやすくなります。 |
| ナッツアレルギーがある場合はどうしますか | アーモンドの層が味の中心なので、無理に作らない方が安全です。ごまやパン粉への代替は食感も風味も大きく変わります。 |
| シーフード版にできますか | できますが、作り方は別物に近いです。魚介、春雨、パプリカ、香草を使うことが多く、粉砂糖を強く出さない版もあります。まずは鶏肉版で層の作り方を覚えると分かりやすいです。 |
参考にした資料
- Morocco Tourism Office, “Fez, gastronomy: Pastilla and street food”, 2026年5月17日閲覧。
- World Intellectual Property Organization, “The Use of Intellectual Property in the Protection of Traditional Culinary Know-How: Scoping Study in Morocco”, 2026年5月17日閲覧。
- Taste of Maroc, “Moroccan Seafood Bastilla Recipe”, 2026年5月17日閲覧。
- My Moroccan Food, “Chicken Pastilla”, 2026年5月17日閲覧。
パスティラは、材料名だけ見ると少し身構えます。鳩、ワルカ、花の香り、粉砂糖をまとった肉料理。けれど、台所でやることは意外と素直です。鶏を煮る。煮汁を卵でまとめる。アーモンドを粗く砕く。薄い皮で包む。ここまで分けて考えると、難しいのは「一気に作ろうとしないこと」だけです。
日本の台所で完璧なフェズの大皿を再現する必要はありません。守りたいのは、甘い香りの表面を割った瞬間に、温かい鶏肉と香草、卵、アーモンドがふわっと出てくる驚きです。その一口ができれば、週末の食卓は十分にモロッコへ寄ります。














