ココナッツの甘い湯気に、唐辛子の青い香りが立つ
雨の日の夕方、豚バラ肉を小さく切って鍋に入れる。にんにく、しょうが、玉ねぎを炒め、ココナッツミルクを注ぐと、台所の空気が急に東南アジアへ寄っていきます。そこへ青唐辛子を入れた瞬間、甘い湯気の奥から少し危ない香りが立つ。白ごはんを多めに炊いておいてよかった、と思う料理です。
ビコール・エクスプレス(Bicol Express / Bikol Express)は、豚肉、唐辛子、ココナッツミルク、発酵えびペーストのバゴオン・アラマン(bagoong alamang)を煮込むフィリピン料理です。現地語では、唐辛子を意味する言葉に由来する sinilihan とも呼ばれます。唐辛子で押し切る料理に見えますが、実際の芯は「辛さ」と「ココナッツの丸さ」と「発酵えびの塩気」の三角形です。
日本で作るときに迷うのは、バゴオン、唐辛子、ココナッツミルクの濃度です。バゴオンは日本のスーパーではまず見つかりません。青唐辛子は時期によって辛さが読みにくい。ココナッツミルク缶はブランドによって濃さが違い、煮詰めすぎると油が分離します。
この記事では、豚バラか豚肩ロース、無糖ココナッツミルク缶、ナンプラーと干しえびの代替で、家庭向けのビコール・エクスプレスを作ります。アドボやシニガンがフィリピン料理の酸味と醤油の入口なら、ビコール・エクスプレスは「ココナッツと唐辛子」の入口です。辛い料理が苦手な家族がいても、唐辛子の入れ方を分ければ食卓に出せます。
料理名は英語表記の Bicol Express が広く使われます。Bicol はフィリピン・ルソン島南部のビコール地方、Express はマニラとビコール方面を結んだ列車名に由来するとされます。ただし料理そのものの起源は一枚岩ではなく、ビコール地方の唐辛子とココナッツ料理を、マニラのレストラン文化が広めた料理として見ると理解しやすいです。
この料理の背景 — ビコールの辛さとマニラの名前
ビコール地方は、フィリピン料理の中でも唐辛子とココナッツをよく使う地域として知られています。島国のフィリピンではココナッツが日常の油脂であり、ビコールではそこに唐辛子の辛味が重なります。乾燥タロイモの葉をココナッツミルクで煮るライング、野菜や唐辛子をガタ(gata / ココナッツミルク)で煮る料理群と同じ流れに、ビコール・エクスプレスがあります。
一方で、現在の料理名「Bicol Express」は、ビコール地方の村で自然発生した名前というより、マニラで広まった名前として語られます。Panlasang Pinoy と Esquire Philippines は、マニラ・マラテ地区の料理人 Cely Kalaw が1970年代に料理を広め、列車名から Bicol Express と名づけたという説を紹介しています。Pepper.ph も、発祥には諸説があり、ビコールの ginataang sili や sinilihan のような料理を、より覚えやすい名前で広めたものと整理しています。
ここで大事なのは、「本場はマニラかビコールか」を勝ち負けで決めないことです。味の根はビコールのココナッツと唐辛子文化にあり、名前と都市部での人気はマニラのレストラン文化が押し上げた。日本の台所で再現するなら、論争よりも、何を守るとビコールらしくなるかを押さえる方が役に立ちます。
守りたいのは、辛味を完全に抜かないこと、ココナッツミルクを甘いクリーム煮にしないこと、発酵えびのうま味を何らかの形で入れることです。この三つがそろうと、材料が日本の豚こまやナンプラーでも、かなりビコール・エクスプレスらしい皿になります。
| 料理の芯 | 現地の材料 | 日本での現実解 |
|---|---|---|
| 辛味 | siling haba、siling labuyo | 青唐辛子、ししとう少量、赤唐辛子 |
| 丸み | gata、kakang gata | 無糖ココナッツミルク缶、ココナッツクリーム少量 |
| 発酵の塩気 | bagoong alamang、balao | ナンプラー+干しえび、または少量の味噌 |
| 主役の肉 | 豚バラ、豚肩 | 豚バラ薄切り、豚肩ロース、豚こま |
日本の台所で本場に寄せる分岐表
材料を全部現地品にする必要はありません。ただし、置き換えると料理の方向が変わる材料があります。
| 迷う材料 | 現地寄せ | 日本で現実的 | 判断 |
|---|---|---|---|
| 豚肉 | 豚バラ角切り | 豚肩ロース、豚こま | 脂が少ないほど軽く、濃厚さは弱くなる |
| ココナッツ | 濃いガタ、ココナッツクリーム | 無糖ココナッツミルク缶 | 代替不可に近い。牛乳や生クリームは別料理 |
| バゴオン | bagoong alamang | ナンプラー+干しえび | 魚介アレルギーがなければこの代替が最も近い |
| 唐辛子 | siling haba、siling labuyo | 青唐辛子、ししとう、赤唐辛子 | 完全に抜くとビコールらしさが弱い |
| 仕上げ | 白ごはん、追加唐辛子 | 日本米、レモン少量 | 米は日本米で十分。酸味は好みで |
代替してはいけないものに近いのは、ココナッツミルクです。牛乳や豆乳に替えると「豚肉のクリーム煮」になり、ビコール料理の輪郭が消えます。ココナッツが苦手な場合は、この料理を無理に作るより、同じフィリピン料理でもアドボやパンシット・カントンから入る方が自然です。
バゴオンは代替できます。ナンプラーと干しえびを合わせると、発酵魚介のうま味が入り、白ごはんに合う塩気になります。味噌は便利ですが、入れすぎると和風の豚汁方向に寄ります。小さじ1を上限にし、足りない塩味はナンプラーや塩で調整してください。
唐辛子は、料理名の見た目ほど大量でなくても構いません。辛さに慣れていない家庭では、青唐辛子3本、赤唐辛子なしから始めます。食卓で刻み唐辛子やラー油を足す形にすると、子どもや辛いものが苦手な人も同じ鍋を食べられます。
失敗原因 — 分離する、辛すぎる、味がぼやける
ビコール・エクスプレスの失敗は、ほとんどが火加減と塩分です。材料は少ないので、強火で煮立てたり、魚醤を一気に入れたりすると修正が難しくなります。
| 失敗 | 原因 | 直し方 |
|---|---|---|
| ココナッツが分離した | 強火で沸かした、煮詰めすぎた | 弱火に落とし、水大さじ2を加えて静かに混ぜる |
| 辛すぎる | 唐辛子を最初から入れすぎた | ココナッツミルク、砂糖少量、白ごはんで調整 |
| 味が薄い | バゴオン代替が弱い、塩分不足 | ナンプラー小さじ1ずつ追加 |
| しょっぱい | バゴオン、ナンプラーを一気に入れた | ココナッツミルクか茹でた豚肉を足す |
| 肉が硬い | 赤身肉を強火で煮た | 弱火で追加15分。豚肩なら水を少量足す |
| 油っこい | 豚バラの脂が多い | 炒めた後に余分な脂を拭く |
辛すぎたとき、ただ水を足すのはおすすめしません。水だけを入れると、辛さは少し薄まってもココナッツの厚みと塩味も一緒にぼやけます。ココナッツミルクを少し足すか、茹でた豚肉や厚揚げを加える方が味が戻ります。
分離した場合も、慌てて強く混ぜないでください。ココナッツミルクは加熱で油が浮くことがあります。フィリピン料理ではある程度の油浮きは自然です。ただ、ザラつきが強い場合は火を弱め、水かココナッツミルクを少量加えて、鍋底からゆっくり戻します。
豚肉を使うため、中心までしっかり火を通してください。煮込み後に肉の中心が赤い場合は、追加で加熱します。作ったあとは鍋のまま長く常温に置かず、残りは浅い容器へ移して早めに冷蔵してください。
食べ方と献立 — 白ごはん、酸味の汁物、甘いデザート
ビコール・エクスプレスは、白ごはんなしでは完成しにくい料理です。ソースだけを味見すると濃く、辛く、塩気も強く感じます。しかしごはんにのせると、ココナッツの脂、豚肉のうま味、唐辛子の刺激がちょうどよく広がります。
フィリピン料理で献立を組むなら、酸味のあるシニガンを小さな汁物にすると、口の中が重くなりません。主食を増やしたい日はパンシット・カントンを少量だけ。甘い締めには、もち米とココナッツのサピン・サピンがよく合います。
東南アジアのココナッツ料理としてつなげるなら、マレーシアのナシレマ、インドネシアのレンダン、ブラジルのムケッカ・バイーアナも相性のよい内部リンクです。ココナッツミルク缶を余らせたとき、次に作る料理が見えると買い出しが楽になります。
家族で食べる日は、鍋全体を辛くしすぎない方がうまく回ります。鍋の中は青唐辛子少なめで仕上げ、別皿に刻み青唐辛子、レモン、ナンプラーを置く。辛いものが好きな人は自分の皿で足し、苦手な人は白ごはんと卵で受ける。フィリピンの大皿料理は、全員が同じ辛さを我慢するより、卓上で少しずつ調整する方が家庭向きです。
| 場面 | 組み合わせ | 理由 |
|---|---|---|
| 平日の夕飯 | ビコール・エクスプレス、白ごはん、きゅうりの酢の物 | 濃い主菜を酸味で軽くする |
| フィリピン献立 | ビコール・エクスプレス、シニガン、サピン・サピン | 辛味、酸味、甘味が分かれる |
| 来客の日 | ビコール・エクスプレス、パンシット、アドボ | 大皿料理で取り分けやすい |
| 辛さ控えめ | 青唐辛子少なめ、レモン、ゆで卵 | 辛味を丸めて食べやすくする |
保存と温め直し — 翌日はごはんにのせるか、卵で閉じる
冷蔵保存は2〜3日が目安です。豚肉と魚介調味料を使うため、作った当日に粗熱を取り、浅い密閉容器へ移します。鍋ごと冷蔵庫に入れると中心が冷めにくいので避けてください。
温め直しは電子レンジでもできますが、ココナッツミルクが分離しやすくなります。おすすめは小鍋です。弱火で温め、水またはココナッツミルクを大さじ1〜2加えます。沸騰させず、ふつふつする程度で止めると、油とソースが戻りやすくなります。
翌日の食べ方としていちばん簡単なのは、温かいごはんにのせることです。目玉焼きを添えると辛さが丸くなり、朝食にも向きます。少量だけ余った場合は、卵でとじて丼にする、茹でたじゃがいもにかける、厚揚げを足して煮返すのも合います。
冷凍はできますが、食感は落ちます。ココナッツミルクが分離し、豚肉の脂も白く固まりやすいからです。冷凍するなら1食分ずつ薄く広げ、解凍後は小鍋でゆっくり温めます。作りたてと同じ状態に戻すより、「濃いココナッツ豚そぼろ」としてごはんにのせる方が満足度は高いです。
よくある質問
Q1. バゴオンなしでも作れますか?
作れます。ナンプラー大さじ1と1/2、刻んだ干しえび大さじ2、味噌小さじ1でかなり近い方向になります。ただしバゴオン特有の発酵えびの香りは完全には再現できません。初回は代替で作り、気に入ったらフィリピン食材店や楽天でバゴオンを探す流れで十分です。
Q2. どのくらい辛くするのが本場ですか?
ビコール地方の料理としては、しっかり辛い方向が自然です。ただし家庭料理なので、辛さの正解は食べる人に合わせます。日本の家庭では、青唐辛子3本から始め、辛いものが好きな人だけ食卓で追加するのが安全です。
Q3. 豚こまでも作れますか?
作れます。豚こまは煮込みすぎると硬くなりやすいので、煮込み時間を25〜30分に短縮します。脂が少ない場合は、油を小さじ1足すか、ココナッツクリームを少し増やすとソースの厚みが出ます。
Q4. ココナッツミルクが苦手です。牛乳で代用できますか?
おすすめしません。牛乳や生クリームに替えると、フィリピンのビコール料理ではなく別のクリーム煮になります。ココナッツが苦手な場合は、同じフィリピン料理でもアドボのような醤油と酢の料理から試す方がよいです。
Q5. 子ども向けにできますか?
できます。青唐辛子をししとうに替え、赤唐辛子を抜きます。大人用には、食卓で刻み唐辛子やラー油を足します。バゴオンやナンプラーの塩分は強いので、子どもが食べる分は最初に薄めに取り分けると安心です。
まとめ — 辛さだけでなく、丸さと発酵を食べる料理
ビコール・エクスプレスは「激辛フィリピン料理」とだけ覚えると、少しもったいない料理です。辛いのは確かです。でも、唐辛子の熱を受け止めるココナッツミルクがあり、塩だけでは出ないバゴオンの発酵うま味があり、白ごはんで完成する家庭料理の設計があります。
日本で作るなら、初回から完璧なバゴオンや現地唐辛子を探さなくて構いません。無糖ココナッツミルク、豚肉、青唐辛子、ナンプラー、干しえび。この組み合わせで、まずは台所にビコールらしい湯気を立てる。食べてみて、もっと辛くしたい、もっと発酵感がほしい、もっと濃くしたいと思ったら、次回に一つずつ現地食材へ近づければいい。
白ごはんを炊き、酸っぱいシニガンか簡単な酢の物を添え、最後にサピン・サピンのような甘いものを少し出す。そうすると、ビコール・エクスプレスは単品の辛い煮込みではなく、フィリピンの食卓の一部として立ち上がります。
参考文献
- Panlasang Pinoy, "Bicol Express Recipe"(材料、調理手順、歴史説明、バゴオンとココナッツミルクの扱いを参照)
- Pepper.ph, "Bicol Express (Pork Belly in Spicy Coconut Sauce)"(料理の由来、ビコール地方の唐辛子とココナッツ文化、発祥諸説を参照)
- Esquire Philippines, "The Contentious Origins of Bicol Express"(Cely Kalaw とマニラでの普及説を参照)
- Wikimedia Commons, "Category:Bicol Express"(画像ライセンスとファイル説明を確認)











